(第15話)介護の重要ポイント・その2「財布を握る」(後編)

(第15話)介護の重要ポイント・その2「財布を握る」(後編)

【いま目の前にある危機】

ハハのアルコール依存症は、当初僕らが考えていたよりも深刻な問題をはらんでいた。
老人介護施設は、基本的に利用者が認知症を患っていることは前提条件に含まれている。だからどれだけ認知機能が衰えても、その程度に応じた何らかのサービスが受けられる。

ところが、そこにアルコール依存が絡むと話は変わってくる
依存症の患者は酒を飲むためなら脱走でも何でもする。酔えば暴力的になるし、酒が切れれば離脱症状を起こして情緒不安定になり、やっぱり周囲に迷惑をかけまくる。要するにどう転んでも厄介者なので、介護施設はアルコール依存症の患者は基本的に受け入れないのだ。

このスタンスは、一時利用(デイサービス)であろうと入所であろうと同じである。つまり、ハハはアルコール依存をどうにかして克服しない限り、ある日突然追い出されるかも知れないし、将来、施設に入所させてもらえない可能性もあった。

実際、デイサービスに通うようになってから数度、施設から

時々、お母様から少しお酒の臭いがすることがあるのですが、大丈夫でしょうか?

という問い合わせが入り、ウチの事情をすべて把握しているケアマネージャーのTさんをヒヤヒヤさせた。

「あまりこういうことが続くようですとマズいので、できればデイサービスの前日だけでもお酒を控えていただくよう、うまく誘導できませんか?」
「…わかりました。なんとかします」

なんとかしますとは言ってみたものの、これといって決定的な対策を思いつかない。
とりあえず、デイサービス前日は会社を早退し、ハハが出ていかないよう、夕方には家に居られるようにしてみたりもしたが、そうすると仕事にならないので、何度も続けられる方法ではなかった。

そんなこんなで、いよいよ手詰まり感が強くなってきていたある日、事件は起こった。
ハハが「通帳をなくした」と言い出したのだ。

「いつも入れてるバッグには?」
「入ってない」
「引き出しは見た?」
「見たけど、ないのよ」

認知症を患ってからというもの、ハハの持ち物が行方不明になることは日常茶飯事だったので、最初は「よく探せば出てくるだろう」くらいに思っていた。
ところが、どれだけ徹底的に探しても、見つからない。それどころか、事態はさらに深刻であることが分かってきた。

「病院に行かなきゃいけないのに、保険証がない」
「手帳みたいなやつに、診察券とかとまとめて入れてたじゃん」
「…それが丸ごとないの」
「えええええ!?」

大ごとだった。郵便局と銀行の通帳は言うに及ばず、健康保険証、被爆者手帳、マイナンバーカード、印鑑証明カード、後期高齢者医療被保険者証まで、何もかもなくなっていた
これはもしや、またしても何かの詐欺に巻き込まれたのか。あるいは泥棒に入られたのか?

とにかく、止めるものは全部止めて、次に片っ端から再発行する必要があった。が、それにしても数が多すぎる。
僕と嫁氏は会社を休み、郵便局や銀行や区役所を転々と回った。特に役所での煩雑な手続きと待ち時間には、本当にぐったりした。
便宜上、本人が居ないと出来ないことばかりなのでハハにも同行してもらったが、実質的にはただ座ってるだけで、ときどき居眠りしていた。

凍結解除のために銀行に行った際は、一度凍結した口座を再度動かすには、本人確認が必要ですと言われた。

「えっ、ここにいるのが本人ですが…」
「ええ、ですが私どもには、そちらにいらっしゃるのが本当にご本人かどうか分かりませんので、写真入りの証明書のようなものが必要なんです。運転免許証はありますか?」
「いいえ、ハハは運転しないので」
「ではマイナンバーカードは」
「…それもないです(なくしたばかりだし)」
「申し訳ありませんが、それでは難しいですねえ」
「えーと…こ、これならあるんですが!

苦し紛れに嫁氏が取り出したのは、30年前に発行された、ハハのスキューバダイビングのライセンスカードだった。めちゃ若いハハと86歳の老婆を、目を白黒させながら見比べる行員さん。当然、却下された。

 

【通帳を掌握する】

結局、すべての再発行が完了するまでに、なんだかんだでほぼ1ヶ月を要した。クタクタである。
さすがにハハも「やらかした」と思ったようで、かなりしょげ返っていた。

「今回はあんたたちには迷惑をかけたねえ。何から何まで」
「ほんとだよまったく…」
「こんなに大事なものを全部なくしてしまうなんて、わたしってもうダメやね…」

その時、僕の中で誰かが「今だ」と囁いた。
僕は引き出しからハハの通帳を取り出し、記帳した内容を見せた。

「これを見てごらん。あれだけ言ったのに、まだこんな凄い勢いでATMからお金をおろしてるよね」
「それは必要だったからおろしたんです!」
「何に必要だったか言ってごらんよ。飲み代やろ?」
「違う」
「違わないね」
「……」
「母さんはもう、お金を計画的に使ったり、大事なものを管理したりすることができなくなってるんだよ。今回のことで、自分でもよく分かったろ?」
「……」
「このお金は、親父と母さんが頑張って働いてためた大事なお金じゃん。そして今は、将来あなたが介護施設に入所する日が来た時のために蓄えておかなければならない、大事な資金でしょ」
「うるさいわね!わかった、そんなにあんたが欲しいならあげるわよ」
「俺は1円もいらんわ!そんなこと一言でも俺が言った?」
「…言ってない」
「これは全部、あなたのお金。だけど、あなたが持ってると浪費しちゃうから、俺が預かります。お小遣いは、使っていい分だけ計算して、この中からあげる。それでいいよね?」
「…分かった。それでいい。もう私には無理だから、あんたが管理して」

まさに急転直下
こうして僕は、一連の重要書類紛失事件を契機に、ハハからすべての預金通帳や印鑑や保険証券を預かり、管理を任せてもらうことになった(もちろん、暗証番号などもすべて把握した)。
認知症患者にお金を持たせておくのは、非常にリスキーだ。とても精神的にしんどい作業ではあるが、いつかどこかのタイミングで、真正面から説得して預かるべきだ。

そうしないと、例えばもっと認知症が進行してしまったときなどに、施設に入所したいにもかかわらず
親の通帳には十分残高があるのに、引き出せないから入所費用が払えない
というような事態に陥り、進退窮まることにもなりかねないし、実際、そのような例が全国で多発している。

きちんと説得して親の預金通帳と印鑑を預からせてもらうというのは、成年後見制度より何倍も重要なことなのだ

 

【秘剣・小遣い制】

さて、長らく待ち望んでいた体制になった僕たちは、いよいよ、ハハに自由に酒を飲ませないための伝家の宝刀を試すことが出来るようになった。
小遣い制の導入だ


これが給料であれば普通はひと月分だが、母の今までの行動を見ている限り、とてもではないが「上手に少しずつ使う」などという芸当はできそうになかった。
むしろ、ひと月分を最初の2週間くらいで全部使い果たしてしまうのがオチだったので、一週間分ずつ封筒に入れ、小分けして手渡すことにした。
もちろん、ガバガバ酒代につぎ込めないくらいの金額にコントロールして、である。

ところが、これでも読みが甘かった。
前述したように、ハハがもっとも大手を振って飲みに行ってしまうのは、書道教室がある火曜日だ。この日がいちばん金遣いが荒い。
そうすると、週の後半にはもう金欠になっているので、それから数日間、

やっぱり通帳と印鑑を返して!今すぐ返して!

と、ものすごい形相で怒涛の要求が始まるのだ。正直、これには参った。

そこで、作戦を練り直した。一週間分の小遣いを、さらに二分割することにしたのだ。自分で加減して計画的に使えないのであれば、こちらで小分けしてあげればいい
このやり方はかなりうまくいった。なかなか金欠にならないので、前ほどは荒れなくなった。

もちろん、「通帳返せ攻撃」がなくなることはなかったが、あまりにもしつこい時は、その都度がっぷり四つで
「なぜいま浪費が出来ないのか」
「なぜ酒を飲んではダメなのか」
を噛んで含めて説明した。
説明の内容は半分も理解されなかったが、息子が真剣に自分のことを考えてくれていること、そしていくらわがままを言っても、もう二度とお金を自分の自由に使えることはないであろうことが分かると、すごすごと矛を引っ込めるようになった。

このあと、通帳を返せと「ほぼ」言わなくなるまでには、さらに1年以上の時間を要することになる。

(16話へ続く)(一つ前の話に戻る