(第5話)お金が蒸発した!~同居に踏み切るまで~(前編)

【終りと始まり】

トイプードルの二代目ポーを新しい家族として実家に迎えてから2年ほどの間、僕と嫁氏は、ひたすら家業である明太子屋をどうにか存続させる道を探った。しかし、右肩下がりの状況は一向に改善する兆しがなく、いよいよ廃業が現実味を帯びてきていた。

従業員や関係者にできるだけ迷惑をかけずに、どうやって店を畳むか。そのことが脳内の98%くらいを占めていて、残り2%を食事と睡眠に充てていたので、ハハとの同居について検討するメンタルの空き容量など1MBもなかった。
むしろ創業者であるハハに、辛子明太子屋をやめることをどういう風に切り出し、納得してもらうか。ハハについての悩みは、その一点に尽きた(現場からは退いていたとはいえ、その時点で、ハハは一応まだ役員に名を連ねていたのだ)。

前述したように、ハハは朝令暮改が当たり前の性格だったので、廃業について一度はOKしてくれたとしても、すぐに気が変わり「石にかじりついてでも続けろ!」と言い出しかねない。それだけならまだしも、最悪「お前に会社を任せたのが間違いだった。あの店はお父さんが残してくれた大事な店だ。私が立て直すから任せなさい」などと言って勝手に現場に復帰する可能性すらあった

だが、そうして躊躇している間にも状況はどんどん悪くなり、究極的に財政が逼迫してきて待ったなしの状況になったため、2013年3月、僕は意を決してハハに考えを伝えた。

「もうこれ以上、店を続けていくことが難しいんだ。軟着陸できるうちに、閉店したい」

ハハは一瞬、引きつったような動揺したような、なんとも言えない複雑な表情をした。しかし、口から出てきたのは意外な言葉だった。

「店の前の人通り(の少なさ)を見れば、採算が合わないことくらい私にだって分かるよ。今まで私に気を使って言い出せなかったんやろ?もういいから、早く店を閉めなさい」

正直、非常に驚いた。まさか、こんなにすんなり了承してくれるとは想像していなかったからだ。困難な説得作業が待ち受けているだろうと覚悟していた僕は肩透かしを食らったが、そうと決まれば善は急げである。ハハの気が変わらないうちにと一気にアクセルを踏んで、それから2ヶ月後、店を畳んだ。父の代から数えて、ちょうど50年目の初夏だった。

お土産屋の店舗はなくなったが、会社が消えたわけではない。もう一つの新規事業(カメラ事業部)があったからだ。むしろ出血が止まったことで、ためらいなくやりたいことに打ち込むことができるようになった。それからのおよそ2年間、僕たちは今までの鬱憤を晴らすかのように、新商品の開発に没頭した。

 

【何かがおかしい】

事業を一本化してから、親子の関係にも変化が訪れた。業務内容が大きく変わったため、ハハが気まぐれに介入してくることがなくなったのだ。仕事の話をしなくなり、僕とハハは、15年ぶりに「ただの親子」に戻った。

認知症のことはずっと頭の片隅にあり、訪問するたびにさりげなく様子を探ったが、調子が良い日と悪い日があるくらいで、一見すると急激に悪化しているふうではなかった。

ただ、気になることがないわけではない。ここのところ明らかに、ハハが「片付けられない人」になっているという実感があった。

あるとき実家を訪ねると、玄関を一歩くぐったときから妙な臭気を感じ、僕らは眉根を潜めた。トイプードルのポーは、ハハがトイレのしつけに失敗していたので、ところ構わずおしっこをしまくる駄犬に成り果てていたが、その時感じたのは、そういうペット臭でもなかった。

何の臭いなのか気になりながら、なにげなくリビングに隣接する茶の間の引き戸を開けた瞬間、嫁氏は異様な臭気と足の踏み場もないほどの洋服の山を見て絶句することになる。四畳半ほどのスペースの中、四方の壁ぎわはハンガーに吊るされた服でびっしりと埋め尽くされ、収まりきれない分が床にうず高く積み上げられていた。

ハハが、服をこまめに洗濯していないのは明らかだった。ずっと感じていたすえたような臭いの正体は、これだったのだ。散らかり具合から察するに、タンスから出したものをタンスに戻すといった単純作業も億劫になっているようだった。そのことをハハに指摘するとみるみる機嫌が悪くなって怒り出したので、後日、ハハが留守の間に実家に行って、全部洗濯することになった。(この、ハハが留守の間にいろいろな作業をするというルーティーンは、この先何度も行われることになる)

「…あれってさ、ゴミ屋敷化への第一歩じゃない?」
「うん。俺もそう思う」
「もうそろそろ、一人暮らしをさせるのは限界なんじゃないかな」
「そうだな…」

僕と嫁氏は、暗澹たる気分になりながらマンションへと戻った。
この短いやり取りからも分かるように、同居への覚悟を先に決めたのは、嫁氏である。それに対し、僕はこの期に及んでも、まだためらいがあった。好きなように生きてきて、人に指図されることが大嫌いなハハが、清潔好きでキッチリしている嫁氏と衝突しないわけがなかったからだ。同居など始めれば、家の中が戦争になるのは、火を見るより明らかだった

 

【本当にあった怖い話】

だが、そんなエンゾーの逡巡を吹き飛ばすような事件が、ついに起こる。

ある日実家を訪ねると、ダイニングテーブルの上に、A4サイズの封筒が無造作に置かれているのが目に止まった。表には「◯◯不動産」と印刷されている。無作為にばらまかれたDMのたぐいではなく、明らかにハハあてに送られてきた感じの体裁だ。
何か非常に嫌な予感がして、僕はハハには黙って中身を確認した。

それは、ハハが得体のしれない土地を買ったという権利書だった。

第6話につづく)(一つ前の話に戻る


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