自分からピータンが食べたいとリクエストしておきながら、中華料理店に着いたら、そもそもピータンとはどういう食べ物なのかを思い出せなくなっていたハハ。この「ピータン事件」は、僕たち夫婦にとってかなり衝撃であり、ハハが認知症であると認めざるを得ない決定的なターニングポイントだった。
にもかかわらず、それから実際に介護のための同居が始まるまでには、実に7年もの時を要している。
一体なぜ、それほどまでに遠回りしたのか?この話を語ることは、とりもなおさず、親を長期間放置した言い訳になってしまうけれど、一方で、認知症の親を抱える子が、がっぷり四つに組んで衰えゆく親と向き合う覚悟を決めるまでに長い時間を要するという現象は、本当によく聞く、誰にでも起こりうる話なのだ。ここはひとつ、順を追って紐解いていきたい。
【どこからが認知症なのか。そこが問題だ】
ハハは、60年ほど前に父と二人で田舎から福岡に出てきて、博多駅の中に小さな海産物の土産物店を開いた。辛子明太子が主力商品だ。その売店が、ハハの長い店頭接客販売員としてのキャリアの始まりであり、最終職歴である。
父とハハは人生の大半を借金に苦しみながら細々と過ごしたが、バブルの頃に一気に花開き、最大で15人の人員を抱える規模にまで会社を大きくした。経営者の妻として、また花形の売り子として、ハハは今までの借りを返すかのように稼ぎまくり、経営者仲間と豪遊もした。ハハの人生の中でまとまった貯蓄ができたのは、後にも先にもこの時期だけだ。
22年前に父が70歳で急逝すると、ほぼ入れ替わるようにして僕が会社に入り、僕は26歳でいきなり社長になった。当時、ハハは65歳。世間的にはとっくに定年で退職していてもおかしくなかったが、そこは創業者なので、引退は本人の気の向いた時。人生の予定よりもだいぶ早く連れ合いを亡くしたハハは、仕事をしていた方が気が紛れるということもあり、そのまま店頭に立って土産物を売り続けた。
僕は名目上は社長だったが、長年陣頭指揮を執って店を引っ張ってきたのは間違いなくハハであり、接客業では「売上を上げる者」が最大権力者だ。しかもハハは自他ともに認めるハイパー販売員であり、最盛期には異業種から見学に来るほどの接客スキルを発揮した。よって、うちの会社には社長の上にハハという「神」が存在し、社長が何を言っても神の一言ですべてが覆るという、二代目にとってはよくある苦々しい社風が形成されていた。
同じ会社で働くようになって分かったのは、ハハが驚くほど専制君主だということ。もちろん親子であるから、感情が激しやすく、いったんキレれたら相手が引き下がるまで譲らない性格だというのはよく知っていたつもりだったが、これほどまでにむちゃくちゃだとは想像していなかった。
何しろ、朝から従業員に
「こうしなさい!」
と檄を飛ばしておいて、夕方になると
「何でこんなことをしてるの!」
と烈火のごとく怒る。従業員はハハの指示に従っただけなのだが、それを指摘しようものなら
「そんなおかしな指示を私がするわけないでしょう!」
と10倍返しでさらに喚き散らされるので、もはや誰も逆らわない。息子の僕は、そういうハハの理不尽な言動を子供のころから見てきたので、朝令暮改に苦しむ従業員をどうにか救ってやりたいとは思いつつも、ハハの様子がおかしいとは思わなかった。今にして思えば、既にこのころから認知症の症状が出ていたのだと思う。
若いころから身勝手で怒りっぽい人は、認知症を発症した時に、それが生来のパーソナリティーなのか病気によるものなのかが、非常に分かりにくいのだ。
【神様、神様を引退】
さて、社長業を継いで8年目、34歳になって、僕は結婚した。彼女だった人は嫁氏となり、専業主婦として家庭に入った。ハハは常々、
「あんたが誰と結婚しようとも、私は誰かと一緒に暮らしたくないから、絶対に別居してね」
と言っていた。ハハが自分の性格を分かっていることに驚きつつも、同居してうまくいく可能性はゼロだと思っていたので、こういう申し出は僕にとっても渡りに船であり、結婚と同時に世帯を分けた。ハハは戸建ての実家に残り、僕たち夫婦は車で5分の場所にあるマンションで暮らし始めた。
この頃、バブルの崩壊に伴い会社の業容はかなり悪化しており、このまま土産物店をやっていても先行きが明るくなることはなさそうな状況だった。そこで結婚して丸3年が経ったころ、思い切って食品とはまったく関係のない新しい仕事…カメラのアクセサリーを作って売るという事業部を立ち上げ、それを機に、サポートとして嫁氏に会社に入ってもらうことになった。
嫁氏が会社に入るのとほぼ入れ替わるように行われたのが、ハハの引退だ。この頃には、店頭の客足が目に見えて減っていたので、さすがの「販売の神」も力を発揮できず、暇を持て余すようになっていた。
会社が母に払っていた給料は非常に高く、もはや実情にまったくそぐわず払い続けることができなかったので、引退してもらうよりほかなかった。引退勧告は大変難航したが、会長職のようなものを用意して無理やり納得してもらい、ハハは40年以上立ち続けた現場から75歳で退場した。
いま自分で75歳と書いて驚いたが、当時、ハハの年齢を言い当てられる人は皆無だった。どう見ても、それより15歳は若く見えた。ハハが現役をそこまで長く続けられたのには、見た目や立ち居振る舞いの若々しさが大きく影響していたのは間違いない。これもまた、本人のイメージが認知症となかなか結びつかなかった原因の一つだ。
そしてこの翌年に、冒頭の「ピータン事件」が起こったのだった。
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