(第1話)「あっ…認知症?」ハハの変化に気づいた瞬間

(第1話)「あっ…認知症?」ハハの変化に気づいた瞬間

これは、10年離れて暮らしていた親と同居をせざるを得なくなった男・エンゾーと、その妻(嫁氏)の、現在進行形の「介護戦記」です。

【登場人物】

ハハ

エンゾーの母。元・やり手の店頭接客販売員。認知症になり様々な事件を巻き起こす。

エンゾー
小さな会社の経営者。結婚を機に実家を離れ、嫁氏とマンション暮らしをしていたが…

嫁氏
エンゾーの妻。人手不足につき、エンゾーと同じ会社で働く。ハハに翻弄されていく。

ポー
ハハと暮らすトイプードル。オス。ハハの精神安定剤。

 

【それはピータンから始まった】

2010年くらいの話だっただろうか。

いわゆる「スープの冷めない距離」に住んでいながら、年に数回しかハハに会いに行かない親不孝っぷりに後ろめたさを感じていた僕は、嫁氏と共に、ハハを中華料理屋に連れて行って夕食をとることにした。
目当ての店に向かう道中、車の中で「何が食べたい?」と尋ねると、76歳になるハハは

「そうねえ。私は子供のころ、長崎の中華街の脇に住んでいたから、久しぶりにピータンが食べたいな」

と言った。

ピータン。えっ、ピータン?てっきり、酢豚や麻婆豆腐や青椒肉絲といった王道の中華料理の名前が出てくると思っていた僕は、一瞬面食らった。

ピータン。アヒルの卵を発酵させて作る保存食。よく中華粥のトッピングなどに使われたりする、卵白が黒っぽいゼリーのようになったアレだ。それだけを口に入れると、独特の苦味がある。
珍味ではあるが、わざわざ中華料理店まで出向いていって食べるほど魅力があるかと言われると、ちょっと考えてしまう。

そもそも、メニュー表に単品で記載があるかどうかも疑わしい。
とはいえ、本人がまっ先に名前を出したものだから、よほど食べたいんだろう…あればいいけど。そんなことを考えているうちに、車は店に到着した。

席に付き、三者三様にハードカバーの立派なメニュー表を見ながら、どれを頼もうか思案する。
念のため、ざっと最初から最後まで目を通したら…あった。ピータンも単品で頼める。よかった。
それぞれが好きなものを頼むことにして、やってきた店員さんに順番に注文を伝えていった。

最後にハハの番になり、ハハは酢豚をオーダーしたあと、

「あとはあなた達が頼んだのを少しずつ分けてちょうだい。それでいいから」

と言ったので、店員さんが、では取皿をご用意いたしますねとうやうやしく一礼した。あれ?それでおしまい?

「お母さん、ピータンは頼まないの?せっかく載ってるのに」

てっきり、真っ先に頼むだろうと思っていたので、立ち去ろうとする店員さんにとどまってもらうためにも、やや慌て気味に尋ねた。さっき言ったことを忘れてるんだろうと思い、助け舟を出したつもりだった。

それに対し、ハハはキョトンとした顔をして、じっと僕の顔を見つめた。

「さっき言ってたじゃん、今日はピータンを食べたいって」

ハハはあいかわらず遠くを見るような表情を変えずに、こう言った。

ピータン?…ピータンって何だっけ

背中に、ぞわぞわっと寒気が走る。「そうやったね、忘れてた」でもなければ「そんなこと言ったっけ?」でもない。10分前にピータンを食べたいと言った人が、ピータンとは何かを忘れている

横を見ると、嫁氏がこわばった表情でこちらをチラリと見返した。それでも僕の方をガン見しなかったのは、動揺をハハに悟られないためだろう。

なるほど、ハハよ、そう来ましたか。ついに来る時が来てしまったな。目の前の現実を、腹の底でじんわりと反芻している自分がいた。ハハは認知症だと、確信した日だった。

第2話につづく