(第3話)ソウル事件

(第3話)ソウル事件

【じわじわ】

接客販売の現役を退いてからわずか1年で、ハハはジワリと…しかし明らかに、認知症と思われる症状を見せ始めた。

とはいえ、急激に進行しているかというとそんなことはなく、実生活に支障が出るようなところまでは行っておらず、普段の会話のやり取りにそれほど不自然さはなかった。相変わらずひとりで食事を作り、身の回りのことをこなし、趣味の書道教室などにも精力的に通っていた。かな文字の腕が上達し、賞なども頂いた。

物忘れが多くなったことを除けば、長年立ち仕事で鍛えたハハの足腰は77歳とは思えないほど丈夫で元気であり、どこへでもトコトコ歩いて行ってしまうので、まだしばらくは一人でやっていけそうだった。

ちょうどその頃、会社はかなり経営が苦しくなってきており、そんな中で新規事業まで立ち上げたので、夫婦ともども多忙を極めた。帰宅が深夜0時を超えることが珍しくなく、家にはほぼ寝に帰っているような状態だった。なので、僕たちの中で始まった同居へのカウントダウンは、「そう遠くない将来始めなければならないけれど、でも今はまだその時ではない」という、曖昧でおぼろげなものだった。

【ソウル事件、勃発】

ピータン事件から1年が経ったある日。不況のさなか、不意に海外旅行の話が持ち上がった。エンゾーではなく、嫁氏に、である。

前述のように、父の代から続く土産物屋は博多駅の構内にあったが、同じ場所に軒を連ねる商店主同士には強固な仲間意識があり、毎年仲良く旅行にも行っていた。父が亡くなって代替わりしてからは、そういう行事にはすべて僕が参加していたのだが、ある時「商店主の妻の会」が結成され、その記念として女性陣のみでソウルへ行こうということになった。

参加するメンバーはいずれも錚々たる老舗のマダムたちで、うちの嫁氏では年が離れすぎていて気を使いそうだったのと、そもそも会社がとても旅行など行っている場合ではなかったので、半ば必然的に、マダムたちと長年の顔見知りであるハハに行ってもらうことになった。実家に旅行の予定表を持って行くと、ハハは一瞬なんだか憂鬱そうな表情をしたが、久々の海外旅行なんだから楽しんでくればいいよと、特に深く考えずにバトンを渡した。

そのソウル旅行からハハが帰国して数日後。僕の携帯が鳴った。かけてきたのは、商店主仲間であり親子ほどに年が離れている大先輩のNさんだった。

「エンゾー君。こないだ妻たちだけで行ったソウルのことなんだけどさ…。これ、奥方たちの間では言わないでおこうという話になってたみたいなんだけど、僕は知っておいた方がいいと思ったので、知らせとくね」

背中に冷や水を浴びせられたような緊張が走る。こんな不吉な出だしの電話があるだろうか。

「エンゾー君のお母さん、パスポートと財布が入ったバッグ以外、何も持たずに空港に来てさ。着替えを持ってこなかったみたいなんだ。洋服だけでなく、下着類もすべて。格好も着の身着のままというか、ジャージみたいなのを着て来たんだってさ。ホテルで同室になった人は、洗面所でお母さんの下着を洗ってドライヤーで乾かしてあげたりして、けっこう大変だったらしいよ」

お母さんは少し認知症が始まっていると思うから、エンゾー君も気を付けといたほうがいいよと忠告し、Nさんからの電話は切れた。

ああ。ついに人さまに迷惑をかけるようなレベルになってきたか。これなら、ピータンを忘れるくらい、まだかわいい方だった…。

この頃、確かにハハの様子は少しおかしくなっていた。たまに家を訪ねると、最初は表情がどんよりと曇っていて、何を聞いても生返事で、考えるのが億劫そうだった。

だが一方で、いろいろ話しかけていると次第に元気になっていき、受け答えもまともになり、こちらが帰るころには決まって饒舌になった。何度かそういうルーティーンを目の当たりにして、一つの仮説が浮かび上がった。

「これはやはり、会話がないことが、認知症が進む一因になっているんじゃないか。だったら、会話が増えるような方法があればいいのでは?」

第4話につづく)(一つ前の話に戻る